『AI芸術展』
企画:彦坂なおよし
【前期】2024年2月5日〜11日
Emiko Husson(フランス在住)
Kenske Miyano(ドイツ在住)
渡邊佐和子(書道家墨人会)
糸崎公朗(写真家・美術家)
【後期】2月12日~18日
ヴァンだ一成(アーティスト)
柳川たみ(アーティスト)
波多正木(アーティスト)
菅野英人(アーティスト)
時間:13〜19時(入場無料)
会場:路地と人(水道橋駅すぐ)
東京都千代田区神田三崎町2-15-9(ナンハウス上)
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○展覧会趣旨
AIを使った出力画像がデザイン・イラストの現場を超えて、ファイン・アートの領域でも可能なのかどうかを示すグループ展です。
企画は彦坂なおよしで、参加アーティストは私が主催するニコニコチャンネルの有料講座『自己教育と言語判定法』の受講生より8名を募り、その成果発表であります。
https://ch.nicovideo.jp/hikosaka
この企画展で一番大きなことは、美術とは手で描くことなのだという価値観を巡ってです。
アンディ・ウォーホルのキャンベル・スープや、村上隆の大規模な工房制作に見られるシルクスクリーン制作、そしてジェフ・クーンズの画工をつかった工房制作では、すでに常識としての《手作りの神話》は揺らいでいます。
そうは言っても、コンピューターの画像生成AIよる芸術作品の制作には、否定的な疑いが数多く語られています。
そうした中で、世間の常識の束縛を押しのけて、新しい芸術作品を作ろうとする勇気ある8人の挑戦であります。
(彦坂なおよし)
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特別論文『AI芸術とは、何なのか?』
彦坂なおよし
○第一章 AIは北斎漫画
絵画を分類する時に、私たちは絵の具の材料で行なってきました。油絵、アクリル画、膠彩画(こうさいが)、水彩画、フレスコ画、テンペラ画、クレヨン画、クレパス画、鉛筆画などと、材料の種類で分類してきました。ですので、こういう分類ではないAI絵画というのは、一つの問題なのです。
つまりAIというのは、物質的な画材ではないのですね。では、なんなのか?
例えば、葛飾北斎の作った15編の『北斎漫画』というのは、人物や動物、植物、建物、風景など、ありとあらゆる題材が描かれた絵本です。北斎は、1812年秋頃300点余りの下絵を描いたのです。1814年に、名古屋の版元から初編が刊行されました。各地の門人や私淑する者の指南書で絵手本、職人の発想源として企画し、出版されました。庶民から武士まで広い層に好評で、ベストセラーとなったのです。当初、一巻完結の予定でしたが、好評だったため、版元を変更しながら版行が続き、第十五編で完結しました。
ただ重要なことは、北斎漫画は、葛飾北斎の独創ではなかったのです。鍬形蕙斎の『諸職画鑑(しょしょくえかがみ)』(1794年)『略画式』(1795-99)などが、すでにあったのですが、北斎はこれを模倣したのです。北斎の模倣性の強さは、この時代ですでに指摘されています。さらにその前には、林守篤『画筌(がせん)』(1721年)や、清朝の画譜『芥子園画伝(かいしえんがでん)』(17世紀)もあったのです。
『芥子園画伝』は、清の画家・王概が編集した画譜で、刊行された彩色版画絵手本でした。山水画の描法が、古来の名家の絵を例示して解説されています。『芥子園画伝』は、のちに二集・三集も刊行され、あわせて中国で描法の手本集として好評を博し、わが国でも写本や版本のかたちで普及しました。
こう言う『北斎漫画』や『芥子園画伝』は、絵を描くためのお手本なのですが、今日のAIというものの原型と言えるものなのかもしれません。つまり北斎漫画の人工知能化(Artificial Intelligenceアーティフィシャル インテリジェンス)であるものがAIと言えるかもしれません。そういう意味では、日本美術の『北斎漫画』や中国美術の『芥子園画伝』からの正当な進化であると言えるのです。
つまり、美術史は長いのです。何しろ人類史は700万年もあって、その中で美術は展開して来たものを、お手本として圧縮した画像集が必要なのです。そういう画像集が、コンピューターの中にあるのですが、そのお手本の、より便利化したものが、AIの画像生成であるのです。
つまり、『北斎漫画』や『芥子園画伝』をお手本にして絵を描いて来た歴史があり、アンディ・ウォーホルが、キャンベル・スープのデザインをお手本にして美術を作って来たことを歴史的な事実として認めるならば、AIの画像生成を使ったAI芸術の成立も、正当にあり得るのです。
○第二章 フスマートの普遍性
筆で描く
面相筆で絵描く
ペインティング・ナイフで 描く
指で描く
手の平で描く
足で描く
絵の具を流す
吹き絵
このように描き方もいろいろありますが、AIの場合には、インクジェトプリンターによる出力です。この場合、忘れてはいけないのは、フスマート技法という絵画技法の展開されたものであるのが、インクジェット・プリントというものなのです。
スフマート(イタリア語:Sfumato)は、深み、ボリュームや形状の認識を造り出すため、色彩の透明な層を上塗りする絵画の技法です。特に、色彩の移り変わりが認識できない程に僅かな色の混合を指します。
これはヨーロッパ諸国が、十字軍で侵略した中東からカメラ・オブスクラの使用が輸入されて、このカメラの作る画像をペインティングに置き換えるために開発された描写技術です。スフマート技法が使用されている有名な例が、レオナルド・ダ・ヴィンチや、ラファエロが描いた、ルネッサンス絵画です。
カメラ・オブスクラから、カメラが発明されました。それが同時に、写真の発明であったわけです。絵を描くということで言えば、写真というのは、インスタントに絵を描く技術でありまして、そういう意味では絵を描く技術を進化させたものでありました。事実、肖像画は、写真による肖像写真にとってかわられたのです。
フスマートから、写真、そしてインクジェット・プリントが発明されました。今日では忘れられているフスマート技法ですが、実は写真の中にはフスマート技法は生きていて、さらにインクジェット・プリントにも生きているのです。もう一つ、エアブラシがあります。これもまた、フスマート的画法の一つといえます。
今日の画家たちは、絵画のマチエールや、絵の具の盛り上がり、テクスチャーに魅力を感じると言います。しかし、レオナル・ド・ダヴィンチの絵画は、フスマート技法で描かれているので、筆跡や絵の具の盛り上がりのテクスチャーはないのです。ルネッサンスから、新古典主義主義までの絵には、テクスチャーはないのです。
さらには、アンディ・ウォーホルや、リキテンスタインの作品にも、マチエールも、テクスチャはないです。ジャドのミニマルアートや、エルズワース・ケリーなどのハードエッジにも、テクスチャーは有りません。ジョセフ・コスースなどのコンセプチュアル・アートにも、テクスチャはありません。村上隆のシルクスクリーン絵画にも、テクスチャーがありません。
しかし、今日の画家の多くがマチエールや筆跡のテクスチャーに絵画の魅力をみいだしています。それは原始的なものへの退化なのです。進化があれば退化するという原理で、退化していたのです。
○第三章 反動としてのモダンペインティング
アングルや、ダヴィッドなどの新古典主義絵画は、18世紀中頃から19世紀初頭にかけての芸術思潮でした。それまでの装飾的・官能的なロココの流行に対する反発を背景に、確固とした様式を求めてギリシアの芸術がお手本とされたのです。
この新古典主義に対応したのが、ヘーゲルの『芸術の終焉』という命題でした。つまり、新古典主義によって、芸術は完成して、終わったのです。完成を見ることによって《芸術の終焉》となった新古典主義という芸術運動に続くのは、写真の発明でした。
写真というのは、絵画のカメラオブスクラの発展形態でありまして、新しく進化した絵画であったのです。つまり写真は古典絵画の展開でるフスマート技法の展開であったのです。しかしそのようには人々に理解されなくて、絵画と写真は別のものとされてしまったのです。
人間には、進歩があると、反動で、退化していく動きを取るという癖があります。こうして、写真という進化に対抗する反動の絵画として、印象派が生まれたのです。そこでは筆跡が強調され、テクスチャのある絵画が生まれたのです。しかしそれは写真に見られるフスマート技法への反動的な絵画であるが故のタッチとテクスチャのある絵画だったのです。
つまり、マネからのモネのモダンペインティングというのは、反動的な絵画であったので、奇妙な錯誤を持ちながら展開しました。今の言葉で言えば、アノーマリーな流れなのです。
アノーマリ一というのは、一般的には異常性や変則的なもの、例外状態を意味しているものです。アノマリー(Anomaly)は「変異性」と訳されることが多いのですが、文字通り、説明しきれない「変な」「異質な」事象といえます。モダンアートというのは、写真こそが正当な展開であったのに対して、モダンペインティングというものの多くは、単なる《変異性》であったのです。
○第四章 モダンアートを超えて
さて、本稿の主題の AIを使った出力絵画ですが、これはなんなのであろうか?
この場合、デザインやイラスト、あるいは写真系の技術と考えるものは捉えやすいのです。一番わかりやすいのは、贋作の技術として、ピカソのキュービズムの新作を作るとか、ビートルズの新曲をつくろうという試もされています。
あるいは、自殺したロックグループのニルバーナのカートコバーンの、新しい曲を作るなどの試みがされています。そういう贋作制作をコンピューターでやるというものです。
こう言うAI作品を使って話題になった音楽は、そのたびにYouTube動画で聞いていますが、偽物のイミテーション音楽は、本物の、例えばカードコバーンの演奏を何度見て来たファンとしては、ペラペラのフェイク音楽に過ぎないのです。
フェイクで、ピカソやマティスの絵を描くなどと言うことは、2本でも団体展系の何人ものアーティストやって来ていたことで、1950年代の『美術批評』を見れば、その模倣アーティストを批判している中原祐介氏の文章などはあるのです。
人間がやろうが、AIでやろうが、模倣は、必ず水準が落ちるのですから、模倣してはダメなのです。にもかかわらず、多くの人は模倣をします。模倣が好きなのです。
いまのネットでは、「AI画像生成」という言葉が使われています。人工知能(Artificial Intelligence/AI)を使用した美術作品をなんというべきなのだろうか? しかも贋作ではなくて、真作の美術作品を作るのは可能なのだろうか?ともあれ、全く違う段階なのです。こういう変革は、美術制作だけに起きているのではなくて、社会全体に起きているのです。
つまり人類史の基本にあったのは、原始社会でした。続いて農業革命・建築革命などの文明革命が起きました。さらに、産業革命が起きました。そして今、デジタル革命が起きているのです。こういう変化の中で、今日のAI芸術の可能性がでてきているのです。
あえて似ているものを挙げれば、ダダイズムのシュヴィッタースのメルツの絵画、デュシャンのレディメイド・アート、アンディ・ウォーホルのキャンベル・スープとか、映画の『エンパイア』等の流れに、コンピューターをくっつけたようなものが、今日のAI芸術です。
つまり伝統芸術ではなくて、新興芸術であり、さらにネオダダ系の無芸術と言うべき作品の展開が、AI芸術であると言えるのかもしれないのです。20世紀に3回くりかえさらたダダイズム系の作品をさらに発展させたよう進化した美術なのです。私のやりたいことは、退化したモダンアートを否定する、正当な進化をした芸術の制作です。