「阿蘇へ」2018
鶴崎正良「新作展」
会期 2019年4月27日(土)〜5月6日(月)
時間 14時〜20時
会期中無休
オープニング
4月27日17時ころから
鶴崎正良を囲んで、筑後柳川周辺の文化などについてお話をする会を開きます。
食べ物、飲み物、あります。
※入退室自由。投げ銭式。
・
鶴崎正良
1950年福岡県柳川市三橋町生まれ。佐賀大学教育学部特設美術科卒業。
生家にアトリエを構え、高校の美術教師をする傍ら、油絵を描き続ける。主な受賞に1981年、西日本美術展優秀賞受賞。1997年、谷尾美術館大賞受賞。現在無所属。「しおかわ民」として詩や小説の制作もおこなう。68歳になり再び創作意欲が湧いている。ここ一年の間で描いた風景画を、今度、路地と人で展示する。
「静物」1998
「浮島の土手」1999
「女」1982
うつしとる、とはどんなことか。
そこにわたくしをのせず、白雲のような、わざとぶっつけた、かすりきず。
なぞりとるとは、なんぞのことか。
やながわにはたしかに、こくこくとながれる、ふるき川がある。
この人の筆致には、はみでた恥ずかしさがあり、タダタダ正直だ。
願わくば、この世界に、この景色のむこうがわに、
ひとりのをんなを、生きた女を観てみたい。
瑞々しくも、はかなげに、そんなあわいを感じたのです。
「父と子」 しおかわ民
私は幼少のころから美大にはいり画家になるのを夢みていたが
父のしつこい命令と強制におされて工業高校へ入学してしまった
一日学校へ登下校を三時間して家に帰ると私は進学先を間違えたなと感じた
少しは父を恨んだがせんないことで おのずと私の心は荒み一学期が終わるころ
担任から「お前は絶対落第する」と言われぞっとした
そのころ私は不良生徒へと変っていた
ある晩些細なことで次兄と喧嘩となり私が先にこづいたが 度胸のすわった兄から殴られて
明くる日私の白まなこに赤い糸みたいなものが走った 血だ
それから何か反省すべきものに気づき
私は晩秋のころから大学合格を目標にすえて独学による猛勉強を始めた
その勉強ぶりはすさまじく不眠もいとわず登校する日が多くなった
高三にもなると疲れを感じだしたが
気に病んでいたのか父が朝食のとき新聞を見ながら
「勉強し過ぎて死んだ者はいないからな」とポツリと呟いた
中学しか出ていない私を殴った兄は隣家の電話で
「予備校も国立大学も俺が出してやる」との生々しい肉声を残して
十日後に春日井市の信号も遮断機もない踏切で車と荷物列車と激突してあっけなく死に果てた
私の慟哭は夜な夜な続き涙に暮れ果てて絶望し勉強など放擲してしまった
学校などどうでもよくなり昼間から雨戸を閉めて部屋をまっ暗にして
私は純文学に救いを求めては読書に耽ったがついに視線恐怖症に患った
母の目さえ怖くて見れない
級友もすべてなくし私の完璧な孤独の日々は一年半くらい綿々と続いたが
じっと耐えるしかてだてはなかった
私は卒業の年の大学入試も受けずに自宅で浪人したが
己の情緒不安と神経の病は過敏にふるえ
勉学どころではなくやる気もうせて次の年も受験に失敗したが
S予備校へ私は入り その予備校で一人の女学生との出会いが私の人生を変えた
すっかり忘れていた画家への夢がよみがえると やっとひとつの希望を見いだし歓喜した
私は二浪目に美大に入るため研究所へ行きたいと夜に居間で両親に頼むと父は
「何をぬかすのか、働け」と嘲るように放言した
ムカッとした私は立ちあがりざま白い湯気のたっている赤い石油ストーブを足でけとばした
ストーブはどシンと倒れて大きく響くと父は憤怒の形相で立ちあがり
「何をするのか」と再び罵声を浴びせた
私はとっさに「クソー」と言い乍ら暗い隣の八畳間で父に体当たりをして格闘となりしばらく推しあった
祖父と弟が止めても無理だった
私は足をかけ仏壇の前で父を投げ飛ばしたが二人とも倒れて
上に乗って見た哀れな父の悲しげな暗い顔と吐く息は生臭かった
・