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中西レモン個展【連続企画 歴史による無名化(仮)】~第2回,第3回 岩倉亮介『エジプトのマリア』から1 ,2

こちらの催しは終了しました。ありがとうございました。

中西レモン個展
連続企画 歴史による無名化(仮)


~第一回 岩倉亮介『二人の休憩』から
 2015年5月19日(火)~5月26日(火)

~第二回 岩倉亮介『エジプトのマリア』から1
 2015年5月30日(土)~6月6日(土)

~第三回 岩倉亮介『エジプトのマリア』から2
 2015年6月10日(水)~6月17日(水)

開廊時間 17時~21時(土日は15時~21時を予定)
*開廊中は主に作業風景をご覧になれます。
*初日は搬入からご覧になれます。また最終日は搬出もご覧になれます。

*この連続企画の進行・経過はこちらから随時ご覧になれます。
https://www.facebook.com/events/1583099925275851/

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~第二回 岩倉亮介『エジプトのマリア』から1
2015年5月30日(土)~6月6日(土)

中西レモン個展【連続企画 歴史による無名化(仮)】~第2回,第3回 岩倉亮介『エジプトのマリア』から1 ,2_a0156417_0552352.jpg
岩倉亮介『エジプトのマリア(未完)』(画面左)、岩倉亮介『エジプトのマリア(習作)』(画面右)


・岩倉亮介『バレリーナ』に髭を描く。『二人の休憩』の絵の具除去作業(画面6分割にし、基本一日1区画の絵の具を綿棒等で除去)。

こうした事を通じて、第一回は今回の基本的なテーマ・「歴史による無名化
の象徴とも体現ともいうべき行為が祭式を擬する形で試みられます。
画家個人によって痕跡化された人為的な何か、これは絵画にとってはそれ自体の価値を構成するもっとも根本的な部分です。主語に時間を置き、そういった画家の痕跡、ひいては画家そのものの無化を進める作業を、私が代行的に執り行う事を通じて、今回のテーマの表象化が目指されるわけです。
その上では、やはりその時間の流れていく経過にと重なるように、作業自体は淡々と執り行われる形をとるべきかと思われます。そしてまた、その作業時間が、粛々と行われる祭式的な何かしらの工程にと擬せられた行為とみられることでもありたいと、どこか思うところもある、そういう作業が第一回の作業です。

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・岩倉亮介『エジプトのマリア(未完)』を、『エジプトのマリア(習作)』を元に仕上げを試みる。会期中に描き上がるか否かに関わらず、第二回終了日に絵筆は置く。


そして第二回。
ここでは、第一回目でとりあげた歴史によってなされる作用の、その主語である歴史という概念そのものと同時に、これを形作ろうとする人為性にと焦点があてられます。いえ、今回の作業の様なテーマを掲げる以上、そのテーマを構成する概念の内訳へも一応の向き合い方を示すべきではないかといった必然性が私の中に浮上してきたわけです。

当初、歴史という単語そのものは、大前提としては単純に時間の流れとして今回は扱う予定でした。しかし、さらに一歩進んで、漠然ととらまえどころのない時間の流れから、これを認識可能な何かへと編成しようと云う積極的な人為の現れとして歴史という概念を大まかに捉えてみてはどうであろうか、と思うようになります。この単語を使用する上では、やはりこの概念が常に抱える社会的な意味あいが、なにかしらの政治性とともに育てられ、またなにかしらの正当性の根拠として用いられるなどする傾向があるように思われたためでもあります。いえ、今私がこのような大雑把な物言いをする迄もなく、この歴史と云う概念とそれを構成する様々な考察が示そうとするその全体性や方向性が人為の所産であることは疑いの余地はないことでしょう。ハリスン風に言うと、歴史は芸術同様に、総体的には集団的な要請の一つの現れと云ってもいいのかもしれません。
さて、こうしてあえて問題化されるべきとの思いに至った歴史という概念を象徴的に表す作業としては、今回購入した絵画と向き合うなかでどのように表されるのが適切であろうか、と云う事が当然問題となります。そこで私は、これを歴史の考証作業にあえて擬する形を採るのはどうかと思いつきました。それは未完成のままに取り残された痕跡に対して、その完成形が想像・復元されるというような、物質的にはバラバラとなった土器が復元されるような作業です。実証性を推し量りながら認識可能な歴史の形成を行う上での最小単位の事実を形成する作業。人為的痕跡への他者による更なる介入の形をとって明示される構造をもった作業。こう云った欠片の更なる積み重ねによる認識上の大規模空間の構築と、そこに働いた人の精神の現れを考証して総体化を試みる人為の集合体とも言うべき概念態としての歴史。その最小単位の作業を擬することは同時に極めて大雑把にその総体的な構造をも擬することになるのではないかという淡い期待が、今回の第二回の作業に込められようとしています。

 ここで皆さんに展示される作業は、過去の未完成作品を習作を基に復元することが目指されるような類のものです。当然のことながら、この回では私の作品として一枚の油彩画を仕上げる必然性はありません。しかし、仕上がりをみる絵画は、それ自体岩倉の作品とも言い難いものとなるはずです。作品の作者が岩倉亮介なのか私なのか。面白い事に、復元作業に当たる私が、その歴史的客観性と言うような、作業上保持されるべき意思に基づくよう努めようとすれば務めようとするほど、作品とその価値が拠り所とする第一条件・作家(性)といったようなものが宙ぶらりんとなる事かと思われます。そして、私が一人の解釈者として執り行うこの復元とも創造ともつかない作業、いえ、ただ人の絵に上描きを施しているだけにすぎないかもしれませんが、こうした作業を通して、歴史という概念、あるいはそれを構築し解釈する人為が象徴的に展示されることがこの第二回の一応の試みなのです。



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~第三回 岩倉亮介『エジプトのマリア』から2
 2015年6月10日(水)~6月17日(水)


・第2回で仕上げを試みた『エジプトのマリア(未完)』の絵の具除去作業。(作業工程は基本的に第一週におなじ)
※『(髭の)バレリーナ』、『エジプトのマリア(習作)』は、前者は第二回で試みられる歴史考証的な作業とも異なる形ではあるが、美術史の内側に止まる作業としては作者が二人いる状態のものとなる。後者はもともと未完のまま残された習作である為、その作品としての意味合いや価値づけの所在は曖昧のままであることから、この二つの宙ぶらりんには最終的な絵の具の除去は保留される。


第三回。第三回は非常にシンプルです。
第二回の作業を通して体現の試みられた象徴としての歴史は、その構築に費やされた時間・能力・労働の如何に関わらず、当然のことながら時間の経過や時代性の変化と共に変質を免れ得ず、やはりいずれは無名化または無化にとさらされて行きます。
作業の上では第一回と同じ作業が、歴史に擬して復元・創造された絵『エジプトのマリア(未完)』にと施されることとなります。この時の作業にはしかし、第一回目のそれとは必然的にやや異なる意味合いが、一層加えられた絵の具とともに投影されてくるはずです。
ものとしての一枚の絵に対するやや暴力的とも思われがちな、ただの一回性のハプニングとして作業が終わるのではなく、歴史とそれに付随するように立ちあげられようとする価値や意味といった概念とそれを構築しようとする意思・人為までも、いえ全ての物事が、やはり時間と共に無化にとさらされていくということ。あらゆる人為的な事柄が、それを為そうとした人物の影もろともに無化されて行く作業にと象徴的に重ねられてゆく所に、今回の全体のテーマ・歴史による無名化を標榜する作業としては、ようやっと漕ぎ付けるようになるのではないかと思っています。しかも、陰影の激しい、感情をあおり立てるような演出によってではなく、極めて淡々とした作業で行われてこそ、その無化作用の表象には似つかわしいように思われます。
一方で、再び浮上してくるであろう祭式風の事柄も、やはりこの時には祭式がたどる時代的・社会的な意味あいなど変化を被るように、ここではその形式的な空虚さをさらして行くことになるでしょう。その意味あいは体験を通してある事象をイメージ可能な何かにと抽出していくような段階、そしてこれに続く象徴的段階を経ていったいどのようなものへと変成していくのでしょうか。いえ、むしろここでは、やはりそれすらも烏有に帰すると云うべきかもしれません。とりもなおさず、今のところはそれすらも無化の一つの表れであると積極的に捉えて行きたいと云うのが、この試みを遂行する上での今の私の思いです。

さて、ざっとこのようなコンセプトで「無名化」あるいは「人為性の無化」とでも言うべきことがらを象徴化する作業を試ることが今回の私の一連の企画です。
言うまでもない事ですが、あくまでも今回の作業は試みです。こうすることが、私がどうも気にかかり、今回取り上げようとした何か良く解らない茫漠とした何かを表すための決定的な在り方であるのかどうかすらもまだわからないような試みです。それゆえにとも言えますが、私はこのたびの作業を今思い描いているように遂行するよりほかないと思っています。
今回展示することにした一連の作業。それは私の設定したコンセプトに沿っての作業ではありますが、その初めは、岩倉亮介と云う恐らく現在無名の画家との出会いに端を発しています。ですから、少なくともこれは私なりの彼との対話の現れであり、またテーマの表象化が今回たどった道程というのも、やや一方的ではありますが、私と彼との対峙するその中間に立ちあがってきた問題意識の姿であると言えるかと思います。
重複しますが、今回の作業は私が既に解ったと思っている事を披露する展示ではありません。何かと出くわしたその事を発端としながら、私がまだ関心を十分に構築できてこなかったような、あるいは単純に伺い知れないと見て見ぬふりをしてきた様な解らないことへと向き合うことにと一歩踏み出すような試みでありたい、いや作業としてあるべきだと思っています。いや、うそです、ちょっと大きめに口を滑らせました。しかし、滑らせた口も継いで行きたい。瓢箪から駒が出る事もあるでしょう。ですから、今回の様な形象化されざる概念や想念と云ったものごとの形象化を試みる事が出来る余地を芸術は祭式に遡るその原初性においては宿していたのではないか、いやもっと積極的に社会から要請されてもいたのではないかと、私は時代錯誤者か、あるいは誇大妄想狂あたりを自任しつつ、ハリスンの論文を大幅に誤読しながら、作業への後押しにして行きたいと思っているのです。
くどいようですが、会期中はどうぞふらっとお立ち寄りください。作業の合間、集中力の途切れた時にはお相手致しますので。

2015.5.7 中西レモンとか大谷将とか



中西レモン個展【連続企画 歴史による無名化(仮)】~第2回,第3回 岩倉亮介『エジプトのマリア』から1 ,2_a0156417_0575199.jpg
岩倉亮介『バレリーナ』(1990年 第12回一創会展出品)




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大谷 将/中西 レモン(おおたに まさる/なかにし れもん)

絵画制作および絵画術研究にはじまり、声・体を使った表現、さらにイメージとその表象技術・場へと関心を広げ、これらに関する制作・企画を行う。近年は専ら盆踊りを足掛かりに唄・踊り・語りについてのフィールドワークを行っている。舞木の会共同代表。
展示『掛唄』(2002年秋田・県指定無形民俗文化財金澤八幡宮伝統掛唄行事会場での展示)、『掛唄 vol.2』(2004年東京)。
展示企画『田中英世写真展―舞踏の2000年代を中心に』(2010年東京)他。
舞台企画『ちょっとした舞・踊の祭典 畳半畳』(2004年~東京他)他。
編集『インタビュー・資料集 豊島の盆踊り音頭』(2014年てしまのまど発行)。

http://angel.ap.teacup.com/remonna/

by rojitohito | 2015-05-27 00:00 | 2015年終了イベント

JR水道橋駅のうら路地にある古い建物の2階で展示や催しを行う「路地と人」のサイトです


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